過日のやり直し

生物の飼育を中心に、趣味の話など。

『われらはレギオン』

「レギオン」と聞いてあなたはカオスレギオンを思い出してもいいし、戯言シリーズの滋賀井統乃(宴九段)を思い出してもいい。ガメラを思い出す人も多いだろう。

 

われらはレギオン」。SF作家デニス・E・テイラーの商業デビュー作で、もはや説明不要の大ヒットを飛ばしているハードSF小説だ。

このテイラーという作家はかなり遅咲きで、SFを書き始めたのは50歳代後半になってからだという。その経歴も興味深いところである。

以下、あらすじをWikipediaより引用する。

"SFファンでプログラマのボブは、SF大会の会場で交通事故に遭い死亡してしまう。だが、ボブが目を覚ますと、そこはキリスト教原理主義が支配する2133年のアメリカで、ボブは人間ではなく人間の脳を複製して作られたコンピュータプログラム「レプリカント」となっていた。

高い適応力を示したボブは恒星間探査船「ヘヴン1」の電子頭脳に抜擢され、地球を離れエリダヌス座イプシロン星に旅立つ。自分自身を作成可能なフォン・ノイマン探査機となったボブは、イプシロン星にて自身の複製を作り、あるものは新たな世界の探査へと、またあるものは地球へと旅立っていく。"

 

あらすじからは少しわかりにくいが、要するに主人公は「自分を複製できる宇宙船」である。

クローン、人工知能、機械と人間の違い……手垢の付きまくったテーマではあるが、やはり人間はこの根本的な問いに未だ答えが出せていない。

すなわち、「自己とは何か?」。

あらゆる点で自分と全く同じ存在が目の前にいるとき、あなたは、それが自分でないことを証明できるだろうか?

そして……もう一人の自分と、仲良くやっていけるだろうか。

 

主人公であるボブは、自己の複製を作ることができる。生まれた新しいボブは、記憶や能力をすっかり受け継いでいるが、正確に同一の存在ではない。

ここが面白いところだ。作中で次々と生み出されるボブ・コピー達は(最終的に500人ほどになる)、理論上は同じものになるはずだが、少しずつ異なっている。個性があるのだ。

この個性はボブ自身も予測していなかった現象なのだが、結果的にこれがボブ達の共存に一役かったことになる。

彼らはそれぞれ異なる名前を自身に付け、オリジナルでないことを受け入れる。世代(コピーのコピーのコピーの……)を経るに連れ、オリジナルや第2世代のボブがある種の尊敬を持って接されるところなどは、なにか神話を目撃しているような気分になった。

 

哲学的問題をめぐる思索はもちろんのこと、「SFサバイバル」あるいは「宇宙的DIY」とでも形容できる、「手持ちの材料で問題に対処する精神」も本作品の大きな魅力だ。

アンディ・ウィアーの「火星の人」(映画「オデッセイ」の原作)とは違って主人公は不老不死だし、仲間もいるが、それでも共通したものを感じずにはいられない。

それは資源の割り振りだったり、効率化手段の開発だったり、あるいは余暇の快適な過ごし方だったりするのだが、要するに我々は、途方もなく大きな問題に理詰めでコツコツと挑んでいく過程が大好きなのだ。

RPGだって、格ゲーだって、音ゲーだって、最初はとても勝てないものに、勝てるまで努力するということが楽しみの根幹だ。娯楽に限らず運動も勉強もビジネスも、何かができるようになって何かに勝つということが価値に繋がっている。

莫大な時間と技術力と資源、そして自己複製という裏技を持つボブでさえ、問題に対処する基本は試行錯誤と発想力である。だからこそ、彼は人間なのだ。