過日のやり直し

生物の飼育を中心に、趣味の話など。

震災から10年

(※同じ内容をnoteにも投稿しています

今年は2021年。2011年3月11日に発生した東日本大震災から10年が経った。

幸いにも、直接的な地震津波の被害はほとんど受けずに済んだが、その影響は大きかった。
あの時に自我を持っていた日本人で、全く影響を受けていない人はいないだろうと思う。

地震が起きた14時46分、俺は大学に向かうため家を出ようとするところだった。当日は春休み期間中だったが、バンド練習のためサークル棟に行くことになっていた。
あの時の異様に長い横揺れを今も鮮明に覚えている。それまでに経験した地震とは質が違って、若干不安になったものの、阪神淡路大震災の記憶もおぼろげな俺はそれ以上何とも思わず家を出た。

我が母校のキャンパスは山の中に……というか山そのものであり、通学路とはすなわち山登りだった。下の図を見てもらえれば、このキャンパスが異常な高低差の土地にあるということが理解できると思う。

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5階建ての建物があり、そのうち0階~3階から直接外に出ることができるのだ(そもそも0階って何だよ英国式か?)。建物内の階段を下るよりいったん外に出た方が早いまである。
これは極端な例だが、こういう坂道を息切らしながら登って通学してる大学生もいるということを覚えていてほしい。

とにかく山を登ってサークル棟に入り、バンドメンバーと「地震でかかったね~」とか言いながら練習を始めた。この時点ではまだ未曽有の大災害が進行しているなんて思いもしなかった。
2011年はスマホ過渡期で、まだまだガラケーを持っている人が多かったし、LINEはまだこの世になかった(2011年6月初版)。震災の影響を受けてLINEが作られたので当たり前なのだが、スマホを初めて持った時にLINEがあった人には信じがたいかもしれない。
主な連絡手段がメールである時代。そもそも母校のサークル棟はケータイの電波が入らない山中にあるので、練習が終わるまで地震の情報を得ることはできなかったし、誰かから連絡が来ることもなかった。

家に帰ってテレビをつけたところで、目に飛び込んできたのは「大津波警報発令」の文字だった。自分のところにも注意報が発令されていた。実際には15時台に津波が各地を襲っていたので、おそらく被害の様子も報道されていたのだと思うが、あまり記憶に無い。
結果論として、大学に行くため海から離れたのは正しい判断ではあった(大学は海にも近いため、もしこっちにも10m級の津波が来ていたら自宅が危なかったかもしれない)。
電話はつながりにくかったが、なんとか家族親戚は無事であると情報を得て一安心した。枕元に靴や避難用品を置いて、その日は普通に寝た。
2009年からTwitterをやっていて、それなりにフォロワーとの交流もあったので、そこで得る情報が最もリアルな被災者の声だった。地震の前後を境に全くツイートしなくなったアカウントもあった。その人がどうなったのかは今もわからない。

しばらくして物流が滞り、電力が不足した。
自宅が停電することはなかったが、近所のスーパーやコンビニは電灯を使わず営業していた。日持ちする食品はあまり売っておらず、買い占められたのか、届いていないだけなのかわからなかったものの、食事に困るようなことはなかったと思う。

あの時LINEがあったら……Twitterのユーザーがもっと多かったら(知り合いでやってる人は3割くらいだった)……色々便利なこともあったのかもしれない。デマ情報の拡散ももっと速かったのだろうし、炎上する人ももっと多かったのだろう。

サークルを卒業する先輩たちのため、3月中には追い出しライブを開催することになっていた。なんとか予定通り開催することができたが、ライブハウスの店員に「ちょっとでも揺れたらすぐ中止します」と釘を差されたことはよく覚えている。

原発事故について。
正直、原発を頭から否定する気にはなれないが(代わりにソーラーや火力を増やしていいのかという話だ)、様々な幸運が積み重なってあの程度の事故で済んだということは覚えておかないといけない。
NHKの取材では、最悪のシナリオにおいては福島原発から250km圏内で(浪江町などと同じ帰宅困難地域となり)避難する必要があった。250kmというと東京都全域および横浜までが含まれる。偶然にもその事態は回避されたが、あの地震から数日は、そんなギリギリのラインを我々は生きていた。
今にして思えば、いろんな対応が遅すぎた。東京から本社機能を避難させた企業は数えるほどしかなかったし、政府や各省庁もそうだ。まあ、東京から全ての役人が消えたらそれこそ日本が崩壊していたかもしれないが。
未曽有の大災害において、人間の対応が間に合うなんてことは絶対にないのだろう。

10年はあっという間だった。次の10年はもっと早くくる。せめて各々ができる範囲で、あの時の記憶を忘れないようにするしかない。